《 やっぱり、言葉なんていらないの 》
『口がきけなくて困ったことはないのか』
そう尋ねると、翡翠の色を宿した瞳は、うんざりしたような視線を投げかけて、
二度と聞かないで、と言わんばかりに部屋を出て行ってしまった。
いつだったか、ロストールでは並ぶ者がない大貴族の当主を目の当たりにして
全く畏れを抱かないこの女を、よりによってその血を分けた、自分の妹として祭り上げてしまった。
まったくあの時の俺は気でも狂っていたのだろうか。
『これからエリス王妃に接見する。余計なことは口にするな』
そう言い聞かせたあの時の、きょとんとしたような表情を今でも覚えている。
農家の娘にしては色が白く、その肌に映える夕陽の紅のような髪が自慢げだった。
そして、勝気そうな見た目とは裏腹に、弟ばかりに喋らせる、随分無口な女だとも。
だが、守る為に剣を構える、その一途な姿がやけに脳裏に焼きついて、何やら神がかったものすら感じさせた。
実際、お前は各地で名をあげる冒険者として活躍し、その噂は瞬く間に広がっていった。
つけられた通り名が『竜殺し』と聞いた時には、見た目とのあまりの不恰好さについ、笑い出してしまったものだ。
そんな懐かしい昔話を思い出していると、また、エルフィーネが部屋に入ってきた。
背中に隠していた櫛と鋏をぱっと取り出して、覚悟してと言わんばかりの表情でいやに楽しそうだ。
事を察した俺がやめろ、と口にする前に背後に回り込み、整えるだけ、と身振りで合図し、なだめる様にゆっくりと髪をとかし出した。
「いくら世捨て人になったっていっても、前みたいにちゃんとした身なりでいて欲しいんだとよ」
背後ではエルフィーネが、そう、ゼネテスの言う通りよ、と大げさににうなずいている。
「ノックすら出来ないのか、お前たちは・・・」
ゼネテスなど、どうせこの珍しい状況を楽しみに来ただけのことだろう。そう思いながら冷ややかな視線を送ると、
「いや〜あの冷血の貴公子がなぁ・・・こんなに丸くなっちまって。何だか泣けてくるよなぁ」
と、やたら感慨深そうに、腕を組みながらこちらを眺めている。
「んじゃまあ、邪魔しちゃ悪いからな。あとはご自由にやってくれ、おふたりさん」
そう言うと、手を振りながら、ゼネテスは階下に消えていった。
・・・全く、あいつには、勝てん。
イライラしながらそんなことを考えている間に、大分切り揃えられ、床に落ちた自分の髪を見て、俺は何故か、軽い眩暈を覚えた。
エルフィーネは軽く俺の肩を払うと、立って、と促し、全身が映る鏡の前へと背中を押していく。
そこに現れたのは、まごうことなき、立派なダルケニスの姿だった。血のように紅い瞳、そして銀髪・・・。
覚醒してから日が浅い俺にとって、それはまるで、自分が隠し続けてきた真実を大勢の前で晒されているような・・・そんな、そんな気分だった。
ただ確かなのは、今、自分の横にはエルフィーネがいるという事実。
彼女は俺の心境を察してか、鏡ごしに探るような視線を向けて来たのだが、
何故だか一瞬、ぎょっとしてしまい、その視線から、逃げる。
どうした?もう何も隠すことも、怯えることもない・・・まるで何もなくなったのに、俺は未だに・・・。
再び視線を戻すと、エルフィーネは相変わらず強気な眼差しで、今度は鏡越しにではなく、正面から俺を見つめてきた。
そして目が合った瞬間、その凛とした表情を崩し、すべてお見通しとばかりに目を細め、かすかに微笑んだ。
ゆっくりと持ち上げられた彼女の細い指が、俺の顔に風のように触れ、首のラインをするっとなぞっていく。
どくん、という大きな音がした。
脈打つ鼓動とそれ以外の静寂に全てを預けて、2人の呼吸が一瞬止められる。
どちらともなく、離れ、重なり合い・・・飽きることなく、何度も、何度も。
夕日に照らし出された茜色の部屋と共に、全てが溶けていくような感覚。
「ぁ・・・あんた達っ!!高貴な私の目の前で・・・!!なんって下品なことしてるの?!」
突然、夢中で気付かない俺たちを見かねた、というより勝手にドアを開けて入って来た高飛車なエルフにどやされた。
「エルフィーネ!!あなたぜんっぜん分かってないんだから!いきなりその男に襲われでもしたらどーするの!?
色んな意味でおさらばよ!何があってもぜぇっっったいに助けてあげないんだから!」
「・・・笑えない冗談だ」
「何ですって?!それより、ほ、ほら、アレよ!夕食よ!ほかの下等生物も待ってるんだからさっさと来なさい!!」
エルフィーネは顔を真っ赤にしながら、信じられない!といった表情で俺を見つめたが、
威圧するように近づいて来たエルフに腕をしっかりとられ、慌ただしくその場から連れ去られていってしまった。
そして、夜が訪れた。
宿に泊まってから、既に3度目になる彼女の訪問に、俺は半ば飽きれながらも応えてやった。
いつの間にか、どの部屋からも明りが消え、辺りは静けさに包まれている。
ロウソクの灯火だけが頼りの暗がりで、俺たちは過ごしていた。
背中越しに寝転がっているエルフィーネの指が、俺の腕に軽く触れた。
初めは何を話そうか、と迷うようにゆっくり、そして次第に正確に、文字がなぞられていく。
それだけが、唯一、彼女の言葉を汲み取れる機会なのだが、
今夜はそれがいくぶん面倒な作業に思われて、振り向きざまに、腕をぐっと、引き寄せた。
「・・・言葉など」
はっとしたように、エルフィーネは俺の顔を見上げた。
同時に何かをつぶやきかけたが、ううん、とかぶりを振り、
誰もが圧倒されるような眼差し・・・他人の言葉を借りるならば、そう。
『無限の輝きを秘めた』
そんな瞳を、俺に向けた。
不浄のものとして生を受けた。
全ての楔から解き放たれたいという思いとは裏腹に、
生き抜く為には声をあげることすら叶わず、
破滅的なこの呼びかけに、応える者などいないと思っていた。
だが、閉塞する世界の全てを破壊せんとする死の天使が、今ここにいる。
俺にしては楽観的すぎるだろうが、根拠など必要ない。
お前の可能性を、信じてみよう。
なにせお前は、神でさえ未来を計れない女なのだから。